070711
▼「芸術として記録し」たというアジェの言葉はしかし、芸術としての写真を意図して
撮り続けたということを意味しない。そうではなく、「古きパリ」の建築物や室内家具
に「芸術」を看取したという出来事を表している。また、レイヨグラフやソラリゼーショ
ンといった技法を駆使し、シュルレアリストの写真家としても著名であったマン・レイ
が、『シュルレアリスム革命』誌にアジェの作品を掲載したのは1926年(アジェが亡
くなる1年前)であったが、アジェの写真のほとんどは、その死後に発掘、評価され
ている。言わば、アジェの「芸術」は常に事後的に発見されるものであった。

この事後性は重要である。例えば、ある人物を様々な角度から撮影した場合、思い
も寄らないショットが確実に残されている。癖毛、長い睫毛、首筋のホクロ、隆起し
た喉仏と鎖骨、ふくよかな胸、大きな臍、小さな爪、悩ましい腰のくびれ、逞しい脹
脛など、カメラは意外な細部を捉えている。またこの意外さは当然、モデルに対する
印象の“後”に訪れる(「これほど官能的な魅力を持った人だと思わなかった」など)
のであり、さらに言えば、この意外さによってモデルのイマージュは(再)構築され
る。モデルの“その人らしさ”とは決してア・プリオリなものではない。むしろ、この意
外さによって感知されるものである。

加えて、意外な細部は散漫な知覚よってのみ捉えることが可能だろう。艶っぽい
女性の悩ましい腰のくびれに注視していては、手垢で黒くなった皺に気付くことは
ないし、強靭な男性の隆々とした筋骨に注視していては、そのうなじのコケティッ
シュな魅力を感じることもない。意識の集中は一方向的、閉塞的なものであって、
ある事物を念入りに見つめるということは、他の事物を見ないことによって成立す
る。
意外な細部は、アンドレ・ブルトンの言葉を借りれば、「放心(=distraction)の状
態」において発見される。オートマティズムの速記が、この「放心(=distraction)の
状態」に至る方法であったように、カメラ・アイ、光のメカニズムに委ねる(撮るので
はなく、撮らされる)という非=主体的な“速写”、散漫な撮影によってのみ、思いも
寄らないショットは偶然に(無意識的に)写し出されるのである。

アジェの写真がシュルレアリストの目に留まったのは故なきことではなかった。ア
ジェは表現者としてではなく、あくまでも記録者として「古きパリ」を体系的に撮影し
続けたのだが、その受動的な態度と、写真の膨大な数=都市の隅々に向けられた
無数のカメラ・アイによって、「精神ははじめ、なにひとつ意識的にとらえはしなかっ
たのだ。二つ項のいわば偶然の接近から、ある特殊の光、イメージの光がほとば
しった」(ブルトン)という超現実としてのパリの写像を可能にした。

撮影方法におけるこうした非=主体性すなわち匿名性に鑑みれば、アジェが自身
の写真を単なる資料として考えていたことや、『シュルレアリスム革命』誌に名前が
掲載されることを拒んだという逸話は不思議なものではない。それが謙遜やシュル
レアリスムに対する違和感によるものであったとしても、(無自覚にも)アジェはその
匿名性において、パリという都市の細部の「芸術」を見出すことが出来たのである。言い換えれば、アジェというカメラ・アイが「古きパリ」を「芸術」にしたのだった。

〈続〉

『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』 アンドレ・ブルトン(巖谷國士 訳) 岩波文庫
070707
▼1857年にボルドーで生まれたウジェーヌ・アジェは、晩年近くになってから写真
家として活動を始めたという。それまで船員、役者として生計を立て、後に画家を
志した時期もあったが果たせず、1899年から第一次大戦後までの20年余りを写真
家としての活動期としている。

アジェは家屋や商店、部屋などを被写体として、20世紀のパリの日常を撮り、
それらを画家の題材として売り歩いた(モーリス・ユトリロ、モーリス・ド・ヴラマンク、
藤田嗣治らエコール・ド・パリの画家もアジェの写真を所有していた)。

19世紀末から20世紀初めの、いわゆるベル・エポック(良き時代)のパリの空気を
肌で感じながらアジェは写真を撮り続けた。だが、パリという都市のシンボル的な
建造物を積極的に写したわけではなかった。万国博覧会においてエッフェル塔が
建てられたのは1889年であったが、彼はその約10年後に写真家として活動するの
だし、「縁日の遊園地」「子ども劇場」(『写真集』所収)など、ベル・エポックの外に
ある決して派手やかではない風景の数々を作品として残している。

――「古きパリのありとあらゆる昔ながらの街路に存在する十六世紀から十九世紀
にかけてのすばらしい建築物を写真乾板の形で芸術として記録し、収集してまいり
ました」

これはパリの歴史記念博物館の美術部長であったポール・レオンに宛てたアジェ
の手紙(1920年)の一部である。加速度的に変動する都市の華やかな在りようと
してのシンボルよりも、失われてゆく、忘れ去られてゆく情景に視線を注ぎ、「記録」
として写真に収めてきた、それが写真家である自身の仕事である、という自負が読
み取れる。伊藤俊治は、都市の深層に横たわる文化をアジェは見つめていたと捉
え、「古い建築物や界隈をそれがかつて生き生きと機能していた時のようにとらえ、
その蘇生の瞬間を定着させた」という。ベル・エポックの表層としての都市の姿形で
はなく、生活感や身体感覚(例えば、ぼんやりと考え事をしていても、慣れ親しんだ
家路であれば迷うことはない)の匂いが染み付いた街を写像したということである。

けれども、こうした見方は些か懐古趣味の色合いを帯びてはいないか。パリにおけ
るベル・エポックの風を体感したことがなければ、「古きパリ」も知らない現代人に
とってアジェの写真は一時代の単なる「記録」に留まる。アジェは、「古きパリ」を
「芸術として記録し」たという。それならば、アジェの「芸術」を探らなければ、その写
真の本質を見落とすことになるだろう。

〈続〉

『20世紀写真史』 伊藤俊治 筑摩書房
070325
▼『ラオコオン−絵画と文学との限界について−』の中に次のような一節がある。

――「疲れはてたケパロスが涼しい風にむかって、そよ風よ……来い……おれを
助けて、わが胸をやさしく満たしてくれ。と叫ぶと、妻のプロクリスは、このそよ風
(アウラ)を恋仇の名と思い込むところがオヴィディウスに出てくるが、もし古代人が
ほんとうにそよ風を擬人化し、一種の女性の風の精をアウラという名前で崇拝して
いたことを、むかしの美術作品から知ることができたならば、この個所はもっと自然
に受け取られるだろうと思う」

興味深いのは、古代において「アウラ」という言葉が「そよ風」を意味していたことで
ある。
よく知られているように、「アウラ」はヴァルター・ベンヤミンが『写真小史』(1931)や
『複製技術時代の芸術作品』(1935)において用いた概念である。複製技術の発達
はオリジナルと複製の境界線を曖昧にして、芸術の《いま・ここ》に在るという特性
によって形成される真正性は揺らぐ。写真や映画、ディスクの発明が、絵画や造形
物、演劇、歌の、遍在的・反復的な鑑賞を可能にして、時間と空間の一致点に在る
芸術の一回性あるいは物質性、そしてそれらが醸成する歴史性はあやふやになる
というわけである。こうした社会状況の変化に伴う人間の知覚の変容に対し敏感に
反応していたベンヤミンは、芸術の真正性、それを保証する芸術の権威、伝統的な
重み、すなわち「アウラ」の凋落を看取していた。

また複製技術の発達は、芸術の真正性が作品に内在しているのではなく、観者の
心象によって保証されたものであることを暴いた、と換言できるだろう。『複製技術
時代の芸術作品』の草稿の補遺として、ベンヤミンはマルセル・デュシャンについて
次のように述べている。

――「彼の芸術作品(あるいはその価値)の理論は、最近、一連のシリーズ『彼女
の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』によってあきらかにしているが、
それはほぼ次のようなことである。ある物が芸術作品として眺められるやいなや、
それは本来の使用価値を絶対的に辞めてしまう。だから現代人は、芸術作品とし
ての役目を果たすと認可されたものにおいてよりも、むしろ〈この使用状況から引き
抜くか、廃棄処分にされた〉物における経験〈Erfahrung〉で、芸術作品独特の効果
を感じるのである」

『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』の中で多木浩二が触れているよう
に、『泉』(1917)にこそ相応しいと言えるこの文章は、反芸術への称賛ではない。
芸術のための芸術(ラール・プール・ラール)に対する否認に留まらず、それから
切断された「経験〈Erfahrung〉」を照射している。芸術の真正性の尺度では測れな
いモノ、「アウラ」のないモノに「芸術作品独特の効果を感じる」という経験に、ベン
ヤミンは現代人の特徴的な知覚を見て取るのである。

確認すれば、「アウラ」とは芸術の真正性のことではない。それは作品の皮膜のよ
うなものであり、芸術に備わる崇高さの約束事である。そして現代人はその約束事
を忘れてしまっている。しかしながら、「アウラ」は「芸術のための芸術(ラール・プー
ル・ラール)」から疎外された人間のもとにそよ風のように訪れる。時間と空間の制
約を軽やかに超えて、「アウラ」を感じることとなる。『図説 写真小史』においてベン
ヤミンが言及しているウジェーヌ・アジェの写真における経験とは、そのようなもの
であった。

〈続〉
070205
▼「余は死ぬ時に辞世も作るまい。死んだ後は墓碑も建ててもらうまい。肉は焼き
骨を粉にして西風の吹く日大空に向かって撒き散らしてもらおう」と漱石は言う。
「墓碣と云い、記念碑といい、賞牌と云い、綬章と云いこれ等が存在する限りは、
空しき物質に、ありし世を偲ばしむるの具となるに過ぎない」からである。

「墓碣」は死者の表象に過ぎず、墓参した者がそれを眺めながら死者を偲ぶとき、
彼の主観や経験、記憶の数々は取捨され、歪曲され、圧縮された客体物となって
いる。この表象=支配の暴力性に対して漱石は嫌悪感を抱き、自らの肉体の消滅
を願う。「墓碣」とは、死者から絶対的に遠ざかったもの、死者の不在の現前であ
る。

この意味で、ボーシャン塔は処刑された人々の「墓碣」であり、ロンドン塔の歴史は
彼らの平板化した生によって形作られているとも言える。「二十世紀の倫敦人」は、
ボーシャン塔の一階室の壁に彫られた題辞の数々を、処刑された人々の怨み、
悲哀、絶望の痕として認識し、彼らの可変的な生の在りようを辱めていることを知ら
ない。

ところで、ヴァルター・ベンヤミンは『図説 写真小史』の中で「死による人間の顔の
平板化」について記しているが、ベンヤミンの言う「顔」とは生それ自体と見なして
良いだろう。それは常に動的で、個別的・個人的なものだからである。他者のみな
らず、今しがたの自己と比較しても、同じ「顔」は存在しない。だが(それゆえに)、
ベンヤミンはデスマスク集を前にして「そこにはもはや、個々の瞬間的な動きは定
着保存されていない。ここにあるのは、ひとかたまり(アン・ブロック)の結果だ。い
まや仕事は終わった。停止を呼びかけたもの、これらの顔すべてを平板にし、画一
化したもの、それはひとつなる死だ」と言う。デスマスクとは鋳型に嵌められた客体
物であり、生きていた者の顔の表象なのである。

しかしながら、ベンヤミンはこのデスマスクに匿名性の力を認め、表象=支配の暴
力性を切り返す。ただしその力はデスマスクが内包しているものではない。セーヌ
川から引き上げられた身元不明の女性のデスマスクに対して、「恍惚や歓喜のほ
ほ笑みではなく、歓喜へ近づくときのほほ笑み、期待のほほ笑み」を見て取るとき
の「不気味な誘惑」は、むしろ観者が喚起しているのである。さらに言えば、その喚
起は決して能動的なものではなく、無意識的な所作である。ベンヤミンは「顔、映
像、それらの真実について」の後半で、アウグスト・ザンダーの『時代の顔』におけ
る匿名性の力を看取するのだが、ザンダーが社会的人間を写像し、文化階級の実
像を浮き上がらせた、とを指摘しているわけではない。《菓子作り》にせよ、《下働き
の人夫》にせよ、あるいは《若き農夫たち》にしても、彼らをそれぞれの文化階級の
人間として同定している観者の認識を照射する素材として見なし、同時にこれら典
型(=没個性)的な人間について「ぜひともまとまった物語を語ってみたくなる」とい
う「不気味な誘惑」を示しているのである。

ここで話を戻せば、ボーシャン塔の一階室の題辞を眺める漱石は明らかに「不気味
な誘惑」に駆られている。書体も言語も一様ではなく、漱石にとっては匿名(「デッ
カーとは何者だか分からない」「これも頭文字だけで誰やら見当がつかぬ」)の題辞
を前にして次のように想像する。

――「生れて来た以上は、生きねばならぬ。敢えて死を怖るるとは云わず、只生き
ねばならぬ。生きねばならぬと云うのは耶蘇孔子以前の道で、又耶蘇孔子以後の
道である。何の理窟もいらぬ、只生きたいから生きねばならぬのである。凡ての人
は生きねばならぬ。この獄に繋がれたる人もまたこの大道に従って生きねばならな
かった。同時に彼等は死ぬべき運命を眼前に控えておった。如何にせば生き延び
らるるだろうかとは時々刻々彼等の脳裏に起こる疑問であった。一度びこの室に入
るものは必ず死ぬ。生きて天日を再び見たものは千人に一人しかない。彼等は遅
かれ早かれ死なねばならぬ。されど古今にわたる大真理は彼等に誨えて生きよと
云う、飽くまで生きよと云う。彼等は已を得ず彼等の爪を磨いだ。尖がれる爪の先
を以て堅き壁の上に一と書いた。一をかける後も真理も古えの如く生きよと囁く、
飽くまでも生きよと囁く。彼等は剥がれたる爪の癒ゆるを待って再び二とかいた。
斧の刃に肉飛び骨摧ける明日を予期した彼等は冷やかなる壁の上に只一となり
二となり線となり字となって生きんと願った。壁の上に残る横縦の疵は生を欲する
執着の魂魄である」

題辞の意味内容は漱石の関心事になっていない。ここでは題辞は言語ではなく、
単なる爪痕である。そしてこの爪痕は、「墓碣」のような何かを伝えるための“目的”
的なものではなく、「死ぬべき運命」という定められた歴史(既存の時間的order)へ
の抵抗、生それ自体としてある。いかなる法も権力も、爪が伸びるという生命の営
為を支配することができないように、「二十世紀の倫敦人」は、ボーシャン塔に投獄
された人々の生を物語ることはできない。爪痕は「不自然の痕跡」として現前し、漱
石の《空想》を喚起し、新たな物語が生成する。
070114
▼文部省海外留学生として、明治33年(1900年)10月から35年(1902年)12月ま
でロンドンに滞在し英文学の研究に専心した夏目漱石は、日記によれば明治33年
10月31日にロンドン塔を訪れている。ただ、『倫敦塔』を執筆したのは明治37年
(1904年)12月20日、『吾輩は猫である』の第一回分を脱稿した直後と言われてい
る。つまり、ロンドン塔に足を運んでから約4年という長い時間を経て、その時の見
聞を記していることになるが、それゆえに、『倫敦塔』を紀行文として位置付けるに
は無理があるし、漱石自身も「何分かかる文章を草する目的で遊覧した訳ではな
いし、かつ年月が経過しているから判然たる景色がどうしても眼の前にあらわれに
くい」と一篇の最後で断っている。『倫敦塔』は、漱石がロンドン塔を訪れたという事
実のみに基づいたフィクションであると見なすのが自然だろう。

ところが、既述の断り書きがある一方、作中の第4パラグラフには「『塔』その物の
光景は今でもありありと眼に浮かべる事が出来る」とも記されている。もちろん、
「『塔』その物の光景」が鮮明に脳裏に焼き付いている、ということ自体をフィクション
として見なすことは可能だが、だとすれば、上記の断り書きを記す必要性がない。
読者の混乱を招くことにしかならないからである。この座りの悪さは、二王子幽閉の
場やジェーン処刑の場などの説話的なイメージを単なる創作として片付けてしまう
には釈然としない、ある違和感に通じているように思われる。

作中の説話的なイメージは戯曲的に書かれており、シェークスピアの『リチャード三
世』、エーンズウォースの『ロンドン塔』から着想を得たことを漱石自身、明らかにし
ているが、「所々不自然の痕跡が見えるのは已を得ない」と綴っている。読後に覚
える違和感の原因をこの「不自然の痕跡」に求めるのは性急かもしれない。けれど
も、先行テクストを織り込むように描いた「塔の歴史」に不自然さが残っているので
あれば、『倫敦塔』を完全なフィクションとして見なすことを留保させるのは、虚構的
な構造に回収されない“何か”であると言える。

ここで確認しておくべきことは、「塔の歴史」がもともと非決定的な点である。それは
、過去−現在−未来と連綿と続く《物語》であり、戯曲的に描かれた《創作物》であ
り、漱石の《空想》でもある。「塔の歴史」はこれらが交錯した一点に幽かに漂って
いるようであって、また、この在りようが『倫敦塔』の幻想性を生んでいると言っても
良い。そして、「不自然の痕跡」とはまさにこの《空想》に他ならず、《物語》とは非
対称なものとして在る。

「やがて煙のごとき幕が開いて空想の舞台がありありと見える」という一文に見る
ように、確かに《空想》は戯曲の一部でもある。ところがこれは《空想》の表象に過
ぎない。『倫敦塔』の叙述は漱石が約4年前の記憶を思い返そうとするところから
始まるのだし、それは決して回想とは呼べないほど不確かで、非現実的なものだ
からである。

――「余はどの路を通って『塔』に着したか又如何なる町を横切って吾家に帰った
かいまだに判然としない。どう考えても思い出せぬ。只『塔』を見物しただけは慥
(たし)かである。『塔』その物の光景は今でもありありと眼に浮かべることが出来
る。前はと問われると困る、後はと尋ねられても返答し得ぬ。ただ前を忘れ後を失
したる中間が会釈もなく明るい。あたかも闇を裂く稲妻の眉に落つると見えて消え
たる心地がする」

「前を忘れ後を失したる中間」としての漱石の《空想》は、過去−現在−未来という
《物語》(=歴史)、「時間的order」に制約されない。だがそれゆえに、時間を遡って
回想することもできないし、他者と共有することも叶わない。「一度で得た記憶を二
返目に打壊すのは惜しい、三たび目に拭い去るのは尤も残念だ。『塔』の見物は一
度に限ると思う」と冒頭にあるように、それは一回性のものである(「会釈」は仏教
用語「利会通釈」の略語で、矛盾する物事を昇華し、総合的、調和的な解釈を得る
意)。この点に鑑みれば、漱石の脳裏に浮かぶ光景はフィクションではないか、とい
う問いは無意味に響くしかない。その光景は例えば、親しい人の顔が全く見知らな
い人の顔に見えてくる経験、その(フロイト的な)不気味な像なのであって、思い返
すこと自体が不可能であり、もとより表象としてしかあり得ない。「見物しただけは
慥(たし)か」というデジャビュのような知覚の残滓しかないのだ。フィクショナルに
糊塗された説話的なイメージから零れ落ちるもの、またその限りにおいてしか意識
されない《空想》こそ「不自然の痕跡」なのである。漱石の《空想》とは、実は受動的
な、あるいは逸脱的なものであった。

『倫敦塔』の最後、「二十世紀の倫敦人」が共有する《物語》(=歴史)によって
打壊されたのは《空想》の表象である。《物語》(=歴史)に回収されない、また回
収されることを拒むことにおいてしか証することのできない一回性の経験、《空想》
は“不自然なフィクション”として描かれざるを得ない。そしてこの隔靴掻痒の在りよ
うが、『倫敦塔』の違和感をもたらしている。けれども「見物しただけは慥(たし)か」
という《空想》の強度のリアリティこそ、新たな物語の自律的な生成の起点だろう。

〈続〉
061217
▼古代ギリシアの美術(理想の美)を規範とする新古典主義の理論的支柱を
与えたヴィンケルマンは、『絵画および彫刻におけるギリシアの作品の模倣に
関する論考』の中で「海の海面がどれほど荒れ狂っていようとも、その底はいつも
静かであるように、ギリシア人の手に成る人物の表情は、あらゆる激情にもかかわ
らず、偉大な、そして端正な魂を示している」と主張する。そしてレッシングはこの
主張に同調するように『ラオコオン』について次のように記す。

――「これを作った巨匠は、肉体的苦痛を与えられた状況のもとで最高の美を
追求した。しかし、はげしさの極点に達した苦痛は肉体をゆがめる。それは美と
調和し得ない。したがって彼は苦痛をゆるめざるをえなかった。叫びをうめきに
緩和せざるを得なかった。それは、叫びが卑しい魂のあらわれではあるからでは
なく、顔をいやらしくゆがめるからである。こころみに、ラオコオンが大きく口をあけて
いるところを想像してみるがよい。この作品が同情の念をひきおこすのは、美と
苦痛とを同時に表現しているからである。ところが、大きく口を開いたラオコオンで
は、顔をそむけたくなるほどの、醜い、いやらしい姿になってしまう。なぜなら、
苦悶する姿を見れば不快感がおこるが、苦しむ対象の美も、この不快感を、同情と
いう甘美な感情に変えることはできないからである」。

しかしながら、こうした芸術家の美の追求の法則についてヴィンケルマンと
レッシングは決定的に異なる見解を示す。前者はギリシア芸術の「高貴な単純さと
静謐な威厳」という絶対的な規範を『ラオコオン』に見出すのに対し、後者は既に
見たように視覚芸術というジャンルの特性(メディウムの限界=抵抗)に法則を
認める。

レッシングは、「ラオコオンの苦しみは、ソフォクレスのフィロクテテスのような苦しみ
である」というヴィンケルマンに疑問を投げ掛ける。フィロクテテスの呪詛の叫びから
は「高貴な単純さと静謐な威厳」は認められないからである。けれども、その事実は
ソフォクレスの美の追求における過ちを意味しない。憤怒、悲嘆、絶望の声を
上げるフィロクテテスに美は認められない、という見方は、ヴィンケルマンの理想
の美の規範に則ったものでしかない。レッシングは、詩(言語芸術)においては、
おぞましい叫びが時間的継起によって緩和されると考えたのである。フィロクテテス
の絶叫が「顔をそむけたくなるほどの、醜い、いやらしい姿」として映ったとしても、
それは一過性のものであり、他の場面との連関によって「同情という甘美な感情に
変える」ことができるというわけである。物語展開(時間的継起)によって、フィロク
テテスの呪詛の叫びに対する読者の不快感は薄らぐ。

一方、視覚芸術においては瞬間を切り取って映し出さなければならず、それゆえに
『ラオコオン』では「叫びをうめきに緩和せざるを得なかった」。これはギリシア芸術
の美の追求というより、「最も含蓄のある瞬間」の選定という視覚芸術のメディウム
の限界=抵抗に拠っているというのがレッシングの論であった。そして、普遍的
理性、美を古典古代から切断し、作品の自律性に見出したレッシングは確かに
近代性を具えていた。

ただし、「最も含蓄のある瞬間」の選定は、新古典主義が唯一至高のジャンルと
して認めた歴史画によく見られるものである。これは先行する物語に依存すると
いう意味で近代性に反するが、しかし『絵画の準備を!』の中で岡崎乾二郎は
ポーラ・ドラローシェの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』について次のように語る。

――「金髪と藁の金色。絵全体はグリーン系の色調ですから、どうしてもそれに
対比する色、そこに色相として欠けている赤が喚起されてしまう、といった仕組みが
微細に組織されている。むしろそのショックが最初になければ、観者にとって、この
絵の背景となった物語を知る必要も生じないかもしれない」

ドラローシェは、ジェーン・グレイの斬首の目前を「最も含蓄のある瞬間」として描い
ており、ここに断末魔の叫びという絶頂の手前を表現した『ラオコオン』との共通点
があるのだが、岡崎はジェーン・グレイにまつわる惨劇という既存の物語とは別に、
「色彩が起こす事件」によって新たな物語(「時間的order」)が知覚的に生成される
という可能性を19世紀の歴史画に見出す。それでは、新たな物語とは一体どのよう
なものなのか。『レディ・ジェーン・グレイの処刑』に衝撃を受けた夏目漱石が書いた
『倫敦塔』の中にその手掛かりがある。漱石は、新たな物語の生成の体験を明確
に記しているのである。

〈続〉
061209
▼レッシングは、絵画=空間的並存(物体を対象)/文学=時間的継起(行為を
対象)というジャンルの限界を明示する。そして、こうした分別が為されたのは、
絵画と文学の相互の安易な模倣、依存に対する批判からである。「一方が他方の
権利をいきなり侵害する」ということは、絵画と文学が国家的(対外的)に独立して
はじめて起こるのであり、そして、この点に自覚的であったと見なすラファエロの
絵画やホメロスの詩(「双方おだやかに賠償で解決するという寛容」)を評価して
いる。視覚芸術と言語芸術は、それぞれの限界によってはじめて確立し、ジャンル
の特性が見出されるのである。

ところで、岡崎乾二郎はモダニズムのメディウム・スペシフィックに触れながら、
『ラオコオン』について刺激的な考察をしている。

――「レッシングによる、舞台、文学、造形芸術という諸ジャンルの分別は、同じ
テクスト、物語が、各メディアそれぞれの物質的抵抗によって、異なる時間順序=
orderとして生成される。時間を決定するのはこうした、諸ジャンルそれぞれの
物質的な抵抗なのだ、といっているように読むことができる」

クレメント・グリーンバーグは「さらに新たなるラオコオンに向かって」(1940)の
中で、「芸術の純粋性は、特定の芸術におけるミディアムの限界を受け入れる、
それも進んで受け入れることにある」と言っている。絵画におけるカンヴァスの
平面性=「ミディアムの不透明性」の露呈、強調が絵画というジャンルの独自性を
回復するとしているが、そのとき、相対的ではなく絶対的に文学とは異なる表現が
為されなければならない。そしてこの意味で、絵画と文学の交錯は、それぞれの
「純粋性」の与件として働く。つまり、絵画と文学の製作は等しく、空間性と時間性
が同居する物語、出来事を起点とする芸術である(それゆえにレッシングが取り上
げる「ラファエロの衣文」「アキレウスの楯」は成立し得る)が、「ミディアムの限界」
によって絵画における物語・出来事と、文学のそれらは異質なものとして表現される。『ラオコオン』とウェルギリウスの『アエネイス』においては、彫像と叙事詩の
違いというよりも、ペンテリコン大理石と言語の限界(抵抗)において異質な物語・
出来事が表現されていると言うべきであり、その点においてジャンルの相違性
(純粋性)がはじめて意識されるのである。

〈続〉

『絵画の準備を!』 岡崎乾二郎×松浦寿夫 朝日出版社
『グリーンバーグ選集』 藤枝晃雄編訳 勁草書房 
061125
▼ポレポレ東中野にて、大浦信行監督『9.118.15 日本心中』を鑑賞。
トークショーで稲川方人が触れていたように、1125日は三島由紀夫の命日であり、『日本心中』と三島(あるいは保田與重郎、日本浪漫派)との(非)関係性について聞きたいところだった。

公式サイト http://www.nihonshinju.com/
061119
▼ゴットホルト・エフライム・レッシングの『ラオコオン』を読了。レッシングが『ラオコ
オン』を記し始めたのは1762年頃、七年戦争の末期だと言われている。ヨハン・ヨ
アヒム・ヴィンケルマンの『ギリシャ芸術模倣論』(1755年)へのアンチテーゼで
あり、視覚芸術(彫刻や絵画)と言語芸術(詩)を峻別したジャンル論であるが、
次の一節からも「絵画と文学との限界について」という副題に似つかないレッシング
の真意が読み取れる。

――「ここに公正かつ友好的な二つの隣国があるとする。(中略)遠い国境地方に
おいて、事情やむをえずして一方が他方の権利をいきなり侵害するというような
場合、このような些細な侵害は、双方おだやかに賠償で解決するという寛容を互い
に失わないものであるが、絵画と文学との関係もこれと同じことである」

ヴィンケルマンの『ギリシャ芸術模倣論』刊行の翌年、ヴェルサイユ条約が成立し、
ブルボン家(フランス)とハプスブルク家(オーストリア)の間に同盟が結ばれる。
「外交革命」とも言われるこの同盟は、国際関係の基本的な枠組みを大きく揺るが
すこととなった。七年戦争が起きたのはこの直後であるが、レッシングは言わば、
こうしたパラダイムチェンジを背景としながら『ラオコオン』を書いたのである。

その意味で、本書は「絵画と文学との限界」を探究した上で、両者の交錯を重要
な問題として捉えているように思われる。実際のところ、絵画は物体を対象とした
空間芸術であり、文学は行為を対象とした時間芸術であるとレッシングは規定する
のだが、上記の引用部がある十八章では、絵画の時間的継起と文学の空間的
並存について触れている。前者では四肢(ラファエロの衣文)の動き=行為、後者
においてはアキレウスの楯の材質や形=物体が例に挙げられた。

この交錯の考察によって、絵画/文学という境界線は無化され、ジャンルの特性が
認められなくなったかのように思える。ところが、レッシングは作者の技術から、
観者・読者の感情に焦点を合わせ、「絵画と文学との限界」を明示する。それは、
「あてもなく歩く散策にも道というものがあるとするならば、私はむしろふたたび自分
のゆくべき道に向かおうと思う」という言葉から始まる二十章以降で展開され、美的表現における絵画/文学それぞれの特性と限界が浮き上がる。絵画においては
空間的並存によって全体の調和性=美を喚起するが、逆に調和を損なう原因と
なるノイズの混在は許されず、「最も含蓄のある瞬間」を選定しなければならない
という制約が生じる。『ラオコオン』が断末魔の絶頂の手前の「瞬間」を表現している
理由がここに見出される。そして文学においては時間的継起によって部分の
一過性=魅力を喚起するが、一方で物体の視覚的イメージは読者の悟性に委ねら
れており、諸部分の描写の積み重ねは対象の解体をもたらすという矛盾に陥る。
「美しい顎の動き、あのえくぼが見えかくれする筋肉の運動」を表現できても、
女性の全体像を一遍に伝えることはできず、描写すればするほど、読者の視覚的
イメージの混乱を招くというわけである。

ところが、またこの両者の限界=境界線が緩やかに溶け出し、改めて交錯が起き
ていることが分かる。「最も含蓄のある瞬間」は時間的継起を前提としており、
「運動」はまた空間的並存をはじまりとしているからである。レッシングの考察は
このように流動的に展開し、絵画―文学を往還している。

〈続〉
050703
▼「ちょっと一服、コーヒー&タバコ特集」が組まれた『BRUTUS』3/15号の冒頭で
紹介されていたのはCafe Bach(カフェ・バッハ)。最寄駅は南千住駅だが、ノスタ
ルジーのような甘美さはなく、デカダンスと言うほど寂れてはいない。気紛れと気だ
るさが漂うその街は大阪の今宮に似ていて、そこでは選挙演説の声が透き通るほ
どに響いていた。

珈琲の香りは鼻ではなくて脳をくすぐるような気がする。焙煎豆が放つ甘い香りが
充溢する店内は、南千住の外にあるようだった。機敏さと丁寧さが程合いのバラン
スで店内の心地よい空間を醸成しており、オーダーを訊く女性もドリップする男性も
プロとして縦横に動いている。コーヒーを淹れる手付きは滑らかであるが、その抽出
作業に確かな技術が隠れていることを知っている者は、期待感を一層膨らませる
ことだろう。運ばれてきたコーヒーを口にすれば、すぐに語り出すことはなく、珈琲
豆をかじった時に口に広がるであろう風味、濃密な味わいを堪能して、少し仰ぐ姿
勢で黙したまま快適な時間を過ごすに違いない。

嗜好品ではなく健康食品として珈琲の普及に努めるという理念は、客の心身の衛
生面に対して責任を担っているという確固とした信念なのかもしれず、その一貫し
た態度が上質の珈琲を提供し続けている理由ではないかと思った。


「Cafe Bach(カフェ・バッハ)」
http://www.bach-kaffee.co.jp/index.htm
050310
▼「ミュシャ展―プラハからパリへ 華麗なるアールヌーヴォーの誕生」
 
http://www.ntv.co.jp/mucha/
  「東京都写真美術館 SHABI 写真はものの見方をどのように変えてきたか」
 
http://www.syabi.com/
050310
▼――「類推によってわれわれは、一個の破損した道具はそのイマージュとなる
(時としては一個の美的対象、アンドレ・ブルトンの愛した「あの流行遅れの、寸断
された、役立たずの、ほとんど理解し得ぬ、邪悪な物体等」となる)ことをも想起する
ことができる。この場合、道具はその使用の中に消滅することはもはやなく、出現
するのだ。物体のこの外見は、類似と反映との外見なのだ。お望みなら、その複写
なのだと言ってもよい。芸術というカテゴリーは、物体にとってのこの出現する可能
性、すなわち、その背後には何ものも――存在以外の何ものもないような純然たる
類似に身を委ねる可能性に結び付けられている。イマージュに身を委ねたものしか
出現しない、そして出現するものはすべて、この意味では、想像上のものなのであ
る」

 「道具」とは細部である。この「道具」の十全とした連携によってメカニズムは成立
するが、そのときそれは「使用の中に消滅」している。すなわちブルトンのいう「出
現」とは「道具」の不全の露呈を意味し、「道具」は「道具」として認識されるに至る。
ところで、生活の営みは「道具」が「使用の中に消滅」している状態ではないか。ひ
とは無意識的に身体の各部位を使用する。五感の連携が動きに他ならず、「道具」
としての身体の各部位を意識するほどに、ぎこちなさが生まれる(文字を綴ることは
「動き」であって、手に意識を集中するほどに文字は崩れる)。その意味において、
誤解を恐れずに言えば、「出現」した身体とは死体と言って良いだろう。「道具」の
全的不全、その究極的な身体状態。それは換言すれば不能の身体ではなく、見覚
えのある身体から完全に切断されたものに他ならない。だがそれゆえに死体は生
体の「複写」であり、イマージュなのだが、それではなぜ、イマージュは「一個の美
的対象」足り得るのか。

 「死体の奇異がまたイマージュの奇異でもあるということはあり得るだろう」という
ブランショの論点において、イマージュ=「複写」とは単に似ているに過ぎないもの
である。そして、「近づけば、事物はいっそう遠ざかる」というアルベルト・ジャコメッ
ティの言葉に見るイマージュの「遠ざかりの現前」(宮川淳)は「道具」の露呈そのも
のである。ところが、注視という意識の集中は能動的なものばかりではないようで
ある。「精神ははじめ、なにひとつ意識的にとらえはしなかったのだ。二つの項のい
わば偶然の接近から、ある特殊な光、イメージの光がほとばしった」というブルトン
の言葉を思い出さなければならない。「精神」という言葉の大胆さに触れつつ、「精
神にとって、あやまちをおかすことの可能性は、むしろ善の偶然性なのではあるま
いか?」というブルトンに対してどのように呼応すればよいのだろうか。

『焔の文学 火の部分T』 モーリス・ブランショ 一九五八年 紀伊国屋書店
『文学空間』 モーリス・ブランショ 一九六二年 現代思潮新社
『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』 アンドレ・ブルトン 一九九二年 岩波文庫
『鏡・空間・イマージュ』 宮川 淳 一九六七年 美術出版社
041206
▼丸山圭三郎の『ソシュールの思想』によれば、ソシュールは詩的技法の発見としてアナグラムに注目し、それが詩人の意図的行為であるという仮説のもと一九〇八年には一九世紀のラテン詩に関する情報を集め始めており、当時ボローニア大学教授であった詩人バスコーリの詩の分析に専心する。一九〇九年には三月一九日、四月六日の二度にわたってバルコーリにアナグラムに関する手紙を出しているのだが、しかしバスコーリの返信はソシュールの仮説に反するものであり、第二信の応答がなかったことからアナグラム研究は未完に終わることとなった。丸山はこの経緯を踏まえて浮き彫りとなったものとして@シニフィアンとシニフィエの相互依存性と、Aシニフィアンの線上性事態の破壊、の二点を挙げて、Aに関してのみ
「《実質》の次元ではなく、《形相》の次元においてシニフィアンの連辞の単線を複数化し、語の下に語を潜ませることによって音楽のポリフォニー化の可能性が指摘されたことに注意すべきだろう。換言すれば、この新しい手法によって、エクリチュールとレクリチュールの二重性のもとに線的展開が対位法的な空間の場に変えられる」と言い足している。この見解がテクスト論の様相であることは言うまでもない。そしてこの《意味形成性の運動過程》は「クリステーヴァの言うル・セミオティークの再活性化によってル・サンボリークな体系の再布置化」することであり、ロラン・バルトが〈作品〉と峻別して〈テクスト〉と呼ぶものであるが、しかし、アナグラムとはこのテクスト論に見る意味生産という多様性のみに関与するものだろうか。もしそうであればソシュールのアナグラム研究の挫折は不可解である。ここではソシュールによる詩人の無意識への拘泥に注視したい。それは丸山が指摘した「@シニフィアンとシニフィエの相互依存性」という、意味生産とは相反する効用に着眼するということである。

 例えば、ソシュールの手稿で分析されているという詩句の一部を丸山に倣って引用してみる。

Donum amplum victor ad mea templa portato

(勝利の暁には、私の神殿にたくさんの供物を持って来なさい)

 「ad mea templa portato」の語群が《マヌカン》(「キー・ワードの頭音と末音から成る特定の語群」)であり、当時のラテン語の音価として表記されるとき「神Apollo」の名がアナグラムの形をとって現れてくるという(「Donum amplum victor」ad mea templa portato」)。この現出を詩人のエクリチュールのレベルに還元して捉えようとすれば、《ディクール活動》と本質的に変わりはない。しかしレクリチュールのレベルで考察すればどうか。もちろん、アナグラムを語の偶然の接近から見出すという視座はテクスト論的なものである。ところがテクスト論が意図的・能動的な言語活動であり、目的的に意味の不在化=意味の生産を遂行するものであれば、《ディスクール活動》と共通していると言えるだろう。たとえ間テクスト性を主張しながら、単一の関係体系における言語価値の裁ち直しではない空間的・時間的広がりを成す《意味形成性の運動過程》を目指す作業であったとしても、である。ソシュールは「神Apollo」というアナグラムの現出をレクリチュールにおいて、しかも受動的な位相で捉えていない。すなわち、ソシュールは、なぜ自分は「神Apollo」というアナグラムを見出したのだろうと問うべきであった。そのときアナグラムの「@シニフィアンとシニフィエの相互依存性」という側面が問題化する。

 シニフィアンとシニフィエの結合の必然性は、それが非自然的な歴史的・社会的産物である限りという人間の恣意性に支えられている。この言語記号学の基本的見地はシニフィアンの解体を導き、その能動的な営為がテクスト論であったとすれば、一方には「シニフィアンとシニフィエの相互依存性」が受動的に露呈する。つまりシニフィアンの解体によって、シニフィアンをシニフィアンたらしめているものが露呈するのである。ここに「シュルレアリスム的なイメージ」との連関を認めることが出来
るのだが、アナグラムをその露呈の契機として見做し整理すれば、「Aシニフィアンの線上性事態の破壊」(=テクスト論)においては「Donum amplum victor ad meatempla portato」という詩句のシニフィアンの解体によって「神Apollo」というアナグラムを生産する。一方の「@シニフィアンとシニフィエの相互依存性」においては「神Apollo」というアナグラムが現出するのである。後者のレクリチュールによって「Apollo」が「Apollo」であるということを読み手は初めて意識する。換言すれば、「Apollo」というアナグラムの出現が、読み手がシニフィアンを「シュルレアリスム的なイメージ」において捉えていたという事態を読み手自身に気付かせるのである。「シニフィアンとシニフィエの相互依存性」とはその延長上にある。

041006
▼最近鑑賞した美術展。
 
 川村記念美術館 『ロバート・ライマン――至福の絵画』
 森美術館 『MoMA ニューヨーク近代美術展 モダンってなに?』
 国立西洋美術館 『マティス展』
 Bunkamura ザ・ミュージアム 『ニューヨーク ゲッゲンハイム美術展』
 東京都美術館 『栄光のオランダ・フランドル絵画展』
 東京国立近代美術館 『RIMPA展』

 『RIMPA展』は、「琳派の普遍性、世界性を問うRIMPA展の試み」であったが、決して有意義だったとは思えない。その理由は「MODULE」のアーカイブで端的に説明されている。グスタフ・クリムトの『裸の真実』(1899)やアンディ・ウォーホルの
『花』(1970)が「RIMPA」の名の下に連れ出されており、その仕儀の節操のなさが露呈した美術展であった。仲町啓子によれば、琳派という名称が一般化するのは1960年代以降だという。その認識論こそが問われるべきだろう。
 1867年のパリ万国博覧会と1873年のウィーン万博を起点としたジャポニスムによって発見された「日本美術」があるとすれば、それはその普遍性や世界性によって着目されたのではなく、西洋文化とは異なる「言語ゲーム」を有していたに過ぎないと言える。そのメカニズムを看過して琳派を敷衍するという節操のなさ。けれども、その「試み」を頭から否定するつもりもない。「RIMPA」なるものがあるかどうかは括弧に入れるとして、ウォーホルが「機械になりたい」と作者性(主体性)の消去を願っていたことと、俵屋宗達という生没年も定かではないという人物像の不明瞭さの共通性(?)、大衆に快く受け入れられ、伝播してゆく現象と力動と。


「MODULE」 
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/daily/index.html
040719
▼繰り返して言えば、視覚(知覚)ははじめから制限されている。しかしながらその制限は決して機能の欠損を意味しているわけではなく、生活において欠かせない
「散漫さ」に他ならない。人の顔を眺めるとき、細部に注目すればするほど、その人の顔を覚えることが出来ない。漢字を書くとき、1画に集中すればするほど、その漢字はどこかよそよそしいものに見えてくる。逆説的に、見ないことによって認識することが「散漫さ」のメカニズムではないだろうか。認識し難い対象が眼前にあるときに人はより見ようとするのである。

 その意味において、アカーキー・アカーキエヴィチは見られていない。「彼がそばを通っても守衛たちは起立するどころか、玄関をたかだか蠅でも飛びすぎたくらいにしか思わず、彼の方を振り向いてみようともしなかった」というように無視されているのである。彼に対する侮蔑は彼を見ないことによって成立する。アカーキー・アカーキエヴィチは既にして幽霊であると言って良いだろう。

――すべてこれらのもの――騒音や、話し声や、人々の群れが、アカーキー・アカーキエウィッチになんとなく奇態なものに思われた。彼はいったいどうしたらいいのか、自分の手足や五体のすべてをどこへ置いたらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。

 主体という言葉は彼にそぐわない。ロシアにおいて、パーソナリティを明示する客観的な素材=外套の有無に関係なく彼は一貫して幽霊である。だからこそ、「その死後なお数日のあいだ物情騒然たる存在を続けるように運命づけられて」いたのであり、一転して「見られる」存在となったのは、周囲の知覚的な変化に関わっている。そして、読み手もまた『外套』後半において彼の強烈な存在を認識する。

 では、アカーキー・アカーキエヴィチの知覚はどうだろうか。「この《新調》という言葉に、アカーキイ・アカーキイウィッチの眼はぼうっと暗くなり、部屋の中のありとあらゆるものが彼の眼の前でひどく混乱してしまった」という場面は、外套に対する思惟=集中が散漫なる存在=“無名性”の瓦解を意味するとしても、「彼にはこの写字という仕事の中に、千変万化の、楽しい一種の世界が見えていたのである」という幸福は俄かに理解しがたい。しかしながら、私はこの一文に強く惹き付けられる。“無名性”の可能性と意味がここにあるのかもしれない。
040703
▼後藤明生は『笑いの方法』の中で、ロシアを旅行したときの実感から「外套は、冬のロシアにおいては、ただ人間の形をした防寒具ではなく、まさに人間そのものなのである。」と書いている。その文化は、ニコライ・ゴーゴリの『外套』の物語が
〈悲劇〉であることを証している、けれどもなぜ『外套』は〈喜劇〉であるのか――これが後藤の一貫した問題提起であって、日常/非=日常、現実/非=現実あるいは悲劇/喜劇といった二項対立を成立させているスラッシュが脱臼するとき〈笑い〉は発生する、と帰結していると言って良いだろう。

――笑いは、実はその迷路ふうの幻想の中にあるのではないだろうか、というのがわたしの考えである。つまり『外套』の笑いは、幻想の中にあったのである。(中略)ゴーゴリにとって最も幻想的に見えたもの、それが現実だった。彼にとっては、ペテンブルグの現実ほど幻想的なものはなかったのである!ペテンブルグの現実ほ
ど、不思議で、奇怪でファンタスティックな世界はなかったのである!

 南国ウクライナ出身であるゴーゴリと首都ペテルブルグの“無関係性”が上記の
「直感」の論拠となっている。しかしながら、対象との“無関係性”それ自体もまた
“関係性”の変相であることに着目しなければならないだろう。「目に映る」モノすべてを「見ている」わけではないように、対象との関係性はいつも主体によって判断されていると言える。その意味で、ゴーゴリにとって「ペテンブルグの現実ほど幻想的なものはなかった」という推論は確かに説得的ではあるものの、主体/対象のそれぞれが自律的に存在していることをア・プリオリに認めている。それは、現実が幻想的に見えることと現実が幻想的であること、という「見る/認識する」の差異を曖昧にする。要点は、視覚の幻想性に他ならない。後藤はアカーキー・アカーキエヴィチの幽霊を「関係のグロテスク」の構造において捉えているが、それが予定調和的な感があるのは幽霊を視覚的に捉えていないからではないだろうか。アカーキー・アカーキエヴィチは「見る/認識する」のスラッシュそのものを体現していたのではないか。

〈続〉
040613
▼先日、岡崎京子の『ヘルタースケルター』が第8回手塚治虫文化賞・マンガ大賞を受賞した。選考委員の関川夏央は「バブルとバブル後の不安な時代を、芸能アイドルの勃興と凋落のドラマで不安にえがききった。主人公が、人工的に勃興・凋落し、しかるに意志的・破壊的に再生するというこの物語は、悲劇と史劇の美しい骨格を支えている。現代文学に大きな影響をおよぼした岡崎京子という天才を顕彰しないなら、手塚治虫文化賞の意味はどこにあるだろう、と私は考えた」とコメントしている。ところで、岡崎京子が登場した80年代、実は彼女が活躍できる居場所・媒体などなかったことに大塚英志の『「おたく」の精神史―一九八〇年代論』は注目している。

 80年代初頭、集英社ブランドが圧倒的なメジャーであった当時、少女まんがというジャンルに収まらない岡崎京子の“居場所”はほとんどなく、そのような若い女性の描き手はエロ本業界に参入してゆくしかなかった。彼女たちに雑誌の選択ははじめからあり得なかったのであり、エロ本のカット描きからはじめてまんが家になるというプロセスが唯一の自発的選択だったという。そして大塚は「彼女たちは、少女まんがという表現そのものに反旗を翻した作家たちだったのだろうか。少女まんが誌では描けないことを描きたかったから少女まんがというジャンルの外に出たのだろう
か。ぼくには単純にそうとは思えない」という。そしてその推測を「フェミニズムのようなもの」と連関して論じている。

――「岡崎京子が描こうとしたのはちゃんと身体を持って、そして少女まんがのような女の子としての内側も捨てたりはしない、そういう女の子たちだった。七〇年代初頭には、(中略)一部の少女まんが誌では性描写も思いきって行われるが、七〇年代後半から八〇年代に入ると急速に保守化し、少女まんがは性なきメディアと化す。けれども(中略)かつて二四年組が七十年代半ばに描こうとしたのは「性的身体を抱えた女の子の内面」であったことを考えれば、岡崎京子たちはその正統な後継者ということになる」

 岡崎京子たちは少女まんがではないジャンルを確立し、自身の“居場所”を確保したようでありながら、しかしそれは決して共通意識をもって為されたことではなかっただろうと思う。岡崎京子の作品(領域)が現在に至り「現代文学に大きな影響をおよぼした」と称賛されたり、「岡崎京子のような作品」が書店で陳列されることは、ある意味では“岡崎自身”とは無関係の現象だからである。『ヘルタースケルター』の単行本帯には岡崎の次のような言葉が書かれている。

――「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子。一人の女の子の落ちかたというものを」


「asahi.com 手塚治虫文化賞」 
http://www.asahi.com/tezuka/04a.html
「i-okazaki」 
http://www.asahi-net.or.jp/~aq4j-hsn/okazaki/
040601
▼谷川渥の『美学の逆説』を読む。T味覚の不幸、W美学距離の現象学、X記号論としての美学、が興味深かった。T味覚の不幸では、人間の感覚と美の関与性について考察されている。プラトンの『ヒッピアス(大)』を始まりとして「人間のもつ五つの感覚のうち、〈美〉と特権的に関係づけられた視聴二覚を「高級感覚」、
〈美〉との関係をア・プリオリに拒否された蝕・嗅・味の三覚を「低級感覚」とする伝統」が見出されるが、それぞれの関係性が不安定であることが指摘されている。
「漢字の〈美〉の語源的意味に関する議論」において、「美」を“大”きい“羊”(=まるまる太った羊)の組み合わせとして見れば、〈美〉と味覚は関係づけられる。一方「美」を“羊”を部首とするところの〈義〉や〈善〉と同様の語として見れば、倫理的・宗教的価値を帯びることになる。つまり「低級感覚」と、プラトン的な超-感覚性の両義性が〈美〉に認められる。そして「低級感覚」としての味覚が実は「美学的言説の中心位置を占有している」と谷川は論じている。
 「蓼食う虫も好き好き」という句は〈趣味〉というものが個別性を孕んでいることを意味している。〈趣味〉という語を使用することによって価値観の相違や偏差は承認されるのである。そして「味覚については論ずる能わず」( De gustibus non est
disputandum )というローマ人の俚諺もあるように、「味覚=趣味」なる概念は少なくとも十七世紀末までにヨーロッパ諸国に拡散し、「十八世紀の美学的言説において猛威をふるうことになった」という。

――「端的にいえば、十八世紀の美学とはとりもなおさず趣味論なのである。(中略)合理的推論とは別の、「いわくいいがたいもの」( je ne sais quoi )を判別する能力こそ、「趣味」は意味していたのである。」

そして、「判断力」として抽象された「味覚=趣味」は、十八世紀美学を総括する地点からカントの『判断力批判』(1950)によって批判される。「美的判断」を図式的に記述すれば、「質料的美的判断」(「感覚的判断」)/「形式的美的判断」、快適/美、「経験判断」/「純粋判断」であり、後者だけが本来の「趣味判断」であると主張されている。カントは「味や色や音を質料性に属するものとみなして、本来の「趣味判断」から排除している」のである。

 ところで、蝕・嗅・味の三覚はなぜ「低級感覚」として〈美〉との関与性を否定されたのだろうか。谷川は次のように言っている。

――「カントが「趣味判断」における空間的距離の問題を俎上にのせたことがあるというわけではない。しかしカントが本来の純粋な「趣味判断」から質料性を排除し、それを形式にのみ関わらせたとき、彼はそこにいわば「距離」を導入したと見ることができる。形式とは、実を言えば、ある個別的対象の、想像力における反省を意味するからである。」

ここでいう「距離」とは主体と対象との距離である。蝕・嗅・味の三覚は対象との距離がゼロにならなければ機能しないという意味で「想像力における反省」とは無縁である。たしかに「いわくいいがたいもの」( je ne sais quoi )としての対象があるとして、それを想像力によって形式化(換言すれば、“何か”を判断する。あるいはカテゴライズする?)することが可能なのは視聴二覚である。その対象の肌触り、香り、味を想像的に判断することは出来ない。
 こうして味覚は「美的判断」からは排除されることになる。そして谷川はその質料性は現実的には液体的媒質であると展開しつつ、カントの記述にひとつの逆転を見出している。

――「カントはそこで、静止している液体の一部が蒸発もしくは分離したために残りの部分が固定化し、一定の形態や組織を得るような自然的形成、すなわち結晶作用について語っているのである。純粋な「趣味=味覚」の対象から質料(=液体)を排除し形式だけを残したカントの手続きとあたかも類比的な働きが、そこにはある。しかしカントはここで質料=液体を無視するわけではない。自由な種々な形式を美的合目的的に形成する自然の能力に関わるがぎりで、この液体はいまや理性的関心の対象になるのである。」

「味覚」が「舌の前部や咽頭から生じる多少とも直接的な印象」を意味するのであればそれは“反省的”ではなく“反射的”であるのだから本来の「趣味判断」とは言えない。ここで谷川はブリヤ=サヴァランのいう「反省感覚」=「器官から渡されたもろもろの印象に霊魂が加える判断」を借りて、カントは「霊魂」ではなく「想像力」「悟性」を持ち出して「味覚」に「距離」を導入し「趣味判断」へと転じたというのである。食物を飲み込んでしまってから初めて、そのいま感じたことを判断して、「これは美味しい」とつぶやく、その言動に注目するように。
040524
▼マイケル・ムーアの『華氏911』が、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。そのムーアがイラク前線の兵士たちから送られてきた手紙を公開している。それらの手紙に付け加えて、イラク戦争を巡るアメリカの現状をまとめるとともに、兵士たちとその家族及びイラク民間人を支援するための実践的な5つの提案を示している。

「マイケル・ムーア『兵士たちからの手紙』」
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/252
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/demo/
040521
▼夏目漱石の『草枕』を再読する。漱石の小説を読むたびに、その圧倒的な教養には恐れ入るが、『草枕』もまた註釈なしに読むことは困難である。新潮文庫に収められている「『草枕』について」(1981年)を参照すれば、柄谷行人は「何ひとつ明確なイメージを指示しない語(漢語)の奔放な駆使」に着目し、「漱石が『草枕』を書く前に『楚辞』を読みかえしたという事実は、この小説が徹頭徹尾“言葉”で織りあげられたものだということを証している」という。

「“言葉”で織りあげ」るということは、多彩に物語を紡ぎ出すということではない。実際に『草枕』には物語はないと言える。柄谷はその事実に言及しながら、「画工」の絵画論を小説論として捉え、「漱石はこの作品において、“現実”を無化するところに成立する“想像的なもの”の優位を、あるいは現前性(プレゼンス)に対して不在性(アブセンス)の優位を確保しようとしている」と明言する。具体的には、19世紀の近代西洋文学を「真の文学」と見做す風土への批判、つまりは自然主義が見出すような“現実”を「“想像的なもの”に回収」することである。『草枕』に散在する漢語は確かに注釈を頼りに読解することはできる。けれども、「真の文学」という記号への批判とのアナロジーとして、漢語(言語)の記号機能は批判対象となるのだから、「われわれはたんに『草枕』の多彩に織られた文章のなかを流れて行けばよい」と柄谷が帰結するように、『草枕』から何か輪郭を持った主題や感受すべき“現実”を読み取ろうとする身振りほど不当なことはないだろう。

 ところで、「画工」の絵画論は「非人情」という言葉に集約されている。それは対象物(の“現実”)に対する無関心、無関係(=「余裕」)を意味すると言っても良いだろう(「放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画に於て、詩に於て、もしくは文章に於て、必須の条件である」)。問題はこの「非人情」の様態ではないだろうか。 例えば「画工」は「那美」を見たとき、次のように語っている。

――「口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨れの瓜実形で、豊かに落ち付きを見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせ付いて、所謂冨士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたる如く、ぴくぴく焦慮ている。鼻ばかりは軽薄に鋭くもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない」

 このとき「画工」は「那美」を画として描けないことを告白しているようだ。にも関わらず、その事実に驚きはない。極めて冷静に客観的に「那美」の顔を正視しているようで、その上「画にしたら美しかろう」という。それは、「那美」が美しいのではなくて「画」として描かれた「那美」が美しいということだが、ここには描けないものを描こうとする二律背反がある。そしてこれは絵画における方法論によって解決できるものではなくて、「画工」の絵画論そのものであると思われる。

――「わが感じは外から来たのではない、 たとい来たとしても、 わが視界に横わる、一定の景物でないから、これが原因だと指を挙げて明らかに人に示す訳に行かぬ。あるものは只心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう―否この心持ちを如何なる具体を藉りて、人の合点する様に髣髴せしめ得るかが問題である」

 「画工」が「この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう」という表現論を斥けながら問題化しているのは主体の消滅ではないだろうか。「乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷う」のは主体の知覚に因る。だからこそ描くことができないという逆転がある。「画工」は主体の消滅という言葉は使っていないけれども、「何とも知れぬ四辺の風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは那物ぞとも明瞭に意識せぬ場合がある」と言っている。この「場合」を「余が心は只春と共に動いている」ような「同化」とも言っている。この「同化」を「非人情」の様態として考えることができるならば、「画工」の主張する芸術家とはア・プリオリな主体が消滅するところの存在とも言い難い存在であるのかもしれない。「画工」は「観海寺の和尚」について次のように語っている。

――「彼の心は底のない嚢の様に行き抜けである。何にも停滞しておらん。随処に動き去り、任意に作し去って、些の塵滓の腹部に沈殿する景色がない。もし彼の脳裏に一点の趣味を貼し得たならば、彼は之く所に同化して、行屎走尿の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう」

 このとき「芸術家」は決して芸術作品の生産者を意味していない。「非人情」だけが「芸術家」の与件となっている。それでは芸術作品の生産とは一体どういうことなのか。「画工」にとってそれは描かれる“もの”によってのみ主体を確立すること。言い換えれば、描きつつ描いている自身を確立し、あらゆる“現実”から独立した「画」を描くことだろう。「色、形、調子が出来て、自分の心が、ああ此所に居たなと、忽ち自己を認識する様にかかなければならない」という絵画論は、そのような事後的に自律的主体を確立する運動を意味しているように思われる。

 しかしながら、それならば“現実”という外部と乖離した主体=芸術作品の政治性はどうなるのだろうか。漱石が『草枕』を「新小説」に発表したのは1906年である。よって日露戦争という外部が『草枕』に導入されているが、「画工」は一貫して「非人情」である。「那美」は戦争に赴く「久一」に「死んで御出で」という。そして最後の場面、「那美」は、「久一」と同じ列車に乗って満州に向かう別れた亭主と顔を見合わせる。

――「那美さんは茫然として、行く列車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った」

 芸術作品と“現実”の関係性から逃避している感がある。読み終えて腑に落ちない感じが残るのはそのためだろうか。
040516
▼毎月1回だけオープンするコミュニティカフェ、BeGood Cafe。東京では「聖なる言の葉(ことのは)」をテーマとして開催された。ゲストには北山耕平、細野晴臣、海老原美恵。Fleming Pieのライブも企画されていた。

▼「弘法大師入唐1200年記念 空海と高野山」展を鑑賞する。印象的だったのは
「両界曼荼羅図」「仏涅槃図」「阿弥陀聖衆来迎図」、彫刻では「八大童子立像」。
鑑賞説明によれば、重文「両界曼荼羅図」は「弘法大師空海が中国より日本で最初に伝えた真言密教の仏画の代表的なもの」。『大日経』に基づく「胎蔵界曼荼羅」と『金剛頂経』に基づく「金剛界曼荼羅」の二種があり、「無数の仏、菩薩、明王、諸天、天文神などが五彩をもって描かれて」いるという。また伝承によれば、『平家物語』の中で平清盛が自らの頭血を混ぜて絵仏師 常明法印に制作させたことから、「血曼荼羅」と呼ばれている。曼荼羅の語源は「インドのサンスクリット語のマンダラの音訳で「本質を有するもの/完成されたもの」という意味を指す」という。
 1086年に描かれた国宝「仏涅槃図」は日本最古の涅槃図であり、極楽浄土往生を願った人々の眼前に来迎する国宝「阿弥陀聖衆来迎図」とともに最高傑作と言われている。また運慶が大仏師として制作した国宝「八大童子立像」は8躯全てが一堂に公開されるのはこの展覧会が初めてとのこと。

 真言宗総本山として空海のあとも密教の正統が受け継がれた高野山では、平安時代後期に「儀礼や年中行事も整備されるに従い本尊像・経典・法具類が整えられて、密教美術の本流が築かれた」けれども、美術として鑑賞するのは近代的な所作だろう。「仏涅槃図」や「阿弥陀聖衆来迎図」、とりわけ「両界曼荼羅図」の縦424.4cm、横394cmという大きさは観る者を驚懼させ、崇高の念を抱かせる要因になっていると思う。


「BeGood Cafe」 http://begoodcafe.com/index.html
「Fleming Pie official web site」 
http://www.flemingpie.com/
「空海と高野山」 
http://www.koyasan-ten.com/gaiyo_other.html
「文化遺産 オンライン」 
http://bunka.nii.ac.jp/jp/index.html
040511
▼ミシェル・ビュトールの『心変わり』(1957)を読み終える。原題、『Le Modification』は『変更』『変化』などと訳すのが妥当だけれども、訳者の清水徹は「主人公ははじめに抱いていた決意を『変更』するのだし、汽車に乗ってパリからローマに行くあいだ、時間と空間に関する『変化』を経験するのだから」『心変わり』と訳したと説明している。その主人公は「スカベリ・タイプライター商会パリ支店長」のレオン・デルモンである。レオンは妻のアンリエットと別れてローマに住むセシルと共に生きることを決意し、その情愛を伝えるためにローマへ向かう。その最中でのレオンの決意の揺らぎ、困惑の模様=「心変わり」が描かれている。
 ところで、主人公のレオン・デルモンは終始「きみ」と呼び掛けられるように語られている。「きみは真鍮の溝の上に左足を置き、右肩で扉を横に少し押してみるがうまく開かない」―といった具合である。これは奇を衒った方法ではない。この二人称の採用についてビュトールは次のように語っている。

――「物語がある人物の視点から語られることがぜひとも必要でした。ところで、その人物がある事態をしだいに意識してゆく過程が主題となるのですから、かれは
《ぼく》と語ってはなりません。その人物の言語の水準の下にある内的独白、一人称と三人称の中間の形式がわたしに必要だったのです。この《きみ》という呼称のおかげで、その人物の置かれている位置と、かれの内部で言語が生れてくるときの仕方のふたつを描くことがわたしに可能となるのです。」

 視点が他律的であることに読み手は全く違和を感じない、という逆説。それは二人称「きみ」だけが可能にしている。実際に、「ぼく」という語りでは異常な細密描写や時間と空間の錯綜に耐えられないだろう。類似的、反復的場面に飽きることなく読み続けることは難しい。
 『心変わり』は読み手に読まれながら描かれていると言ってもいい。読み手が他律的な視点に不快を感じないのは、二人称「きみ」が否応なしに自律的な視点を獲得させようとするからだろう。そしてその作業は更新され続ける。

――「きみ自身のイメージと、きみの人生のイメージの再構成―それは暗くおぼろな変貌の過程だった、いまのきみは自分が変貌過程のごく小さな地帯しか認めていないということ、その変貌過程の詳細と帰結は、まだ大部分がきみには未知の状態にとどまっているということを強く感じている。」

 レオンの《心変わり》は読み手の《心変わり》に他ならない。けれども、小説を「現象学的な領域」と呼んでいたビュトールは、《心変わり》の「詳細と帰結」ではなく
「変貌過程」=「イメージの再構成」の様態、そして決して自律的な視点だけでは獲得し得ない《もの》に関心があったのではないだろうか。それは《現実》と言ってもいいかもしれない。
 印象深いのは、「眼に見えるものに注意を集中すべきだ、あの扉の把手、あの
棚、荷物ののこっている荷物棚、山の写真、鏡、港に浮かぶ小舟の写真、蓋がついていて、ネジでとめてある灰落し、巻き上げられたカーテン、スイッチ、非常ベルに、」といった文章。なぜ「眼に見えるものに注意を集中すべき」なのかと言えば「この心の内部の動揺、この危険な想い出の醸造と再咀嚼に終止符を打つため」であるが、集中すればするほど、時間と空間の錯綜(それに伴う「心の内部の動揺」と「危険な想い出の醸造と再咀嚼」)が物語に呼び込まれてしまうというのが《心変わり》の様態である。
 描写はある一点から遠近法的に為されるようである。ところが、漢字を凝視していると、どこか《よそよそしいもの》に見えてくるという体験をしたことがある者にとって描写は小説的技法に過ぎないだろう。身体的感覚においては、見れば見るほど対象を認識できなくなってしまうのである。この意味で『心変わり』は心理的というよりも身体的小説(ロマン)と言える。



ミシェル・ビュトール(Michel Butor)

《1926年、北フランスのリール近郊に生まれた。学生時代までをパリで送り、ソルボンヌでははじめ文学を、のち哲学を専攻。20歳のころは、シュールレアリスムとイギリス現代詩、とくにブルトンとパウンドの影響下で詩を書いていた。 大学卒業後、外地で教鞭をとり、エジプト、イギリス、スイスと任地を変えた。詩的体験と哲学的思考を融合させようとする内的要求は、ほとんど必然的にかれを小説へとみちびいた。この『心変わり』(La Modification)を、1957年、31歳で発表するや、その斬新な手法のみごとな成功によって批評家たちの激賞をあび、フランス三大文学賞のひとつであるルノード賞を獲得した。この小説からもうかがえるように、かれは旅行を好み、美術に深い関心をよせている。つねに新鮮な冒険を試みる有能な小説家として、現在フランスの文学界の第一線に立っている。》―1959年『心変わり』初版より
040508
▼南青山のリトルモアギャラリーで開催されている川内倫子の写真展「AILA」を観てきた。2001年に上梓された写真集三部作(『うたたね』『花火』『花子』)と同様に瑞々しく透明感のある写真が並んでいたけれども、面白かったのはそのフォルムと被写体の対称性だった。展示されていた写真は生命を共通のテーマとしている。
《生命》(の誕生)という言葉が孕んでいる純粋で普遍的なイメージは、恐らくそれとは全く逆さまのイメージに支えられている。出産に際して女性の身体的激痛が伴うことが何か倫理的条件のようであることと、クローン技術に対して禍々しさや冒涜を感じることは同一の理性的な判断ではないかと思う。

 ところで、「AILA」の写真(展示されたものに限って)のどれもが「瑞々しく透明感のある写真」として鑑賞できることに驚きを禁じえない。例えば、四つん這いになっている女性の臀部から見える胎児の頭部、それを支えようとする二本の腕が撮られているけれど、その写真と蝶々の交尾の写真を並列させて展示することは違和感しか生まないだろう。しかしながら、両者は整然と「瑞々しく透明感のある写真」として「AILA」の中にに並存していた。なぜだろうか。まず出産場面の写真において血(視覚を強く刺激する色彩としての赤色)はなく、助産師と母親の表情も窺えない。写っているのは二本の腕と胎児の頭部と女性の臀部であって、それぞれは全く無関係に一つのフレームに収まっているかのようである。「と」(=and)だけが観る者に迫ってくると言ってもいいかもしれない。それでいて、出産場面であると認識している。

 カメラはもはや現実を写し出すという機能を担っていない。フォルムが現実を変えてしまっているのである。ただ、そうであるならばカメラの視点は決して揺らぐことはないのだろうか。


「リトルモア」 
http://www.littlemore.co.jp/